ワシントン通信 3.0~地方公務員から転身した国際公務員のblog -148ページ目

教育委員は選挙で選ぶ。

 アメリカでは、11月の第一火曜日は選挙の日なんです。なぜ火曜日なのかは分かりませんが、おとといの11月5日も国政選挙・地方選挙含めて多くの選挙がアメリカ中で行われました。平日なので出勤前に投票を済ませる人が多いのか、朝の地下鉄には「Voted(私は投票しました)」というシールを胸につけた人々が目に付きます。今年の選挙は、2000年の大統領選挙以来の大規模な選挙だったので、あのフロリダでの「開票やり直し事件」を繰り替えさないよう、コンピューターを導入して電子投票を行った州や自治体もあったようです。

 さて、今回の選挙で僕が最も注目していたのは、エリザベス・ドールでもジェブ・ブッシュでもなく、メアリー・ハインズさんとベス・ウォルフェさんという女同士の一騎打ちです。これは僕が住んでいるヴァージニア州アーリントン郡(ワシントンDCのお隣)の教育委員の選挙だったのです。そろそろ長女の小学校をどこにしようか決めなければならず、最近夫婦でいろいろリサーチを始めたところだったので、地元の教育委員の選挙に興味があったのです。アーリントン郡の教育委員は全部で5人で、今回は一議席だけが改選でした。結果は、現役の委員であったハインズさんが再選を果たしました。

 日本にも市町村や都道府県に教育委員会があるはずですが、そこの教育委員はどのように選ばれているんでしょうか。僕が知らないということは、選挙ではなく多分首長が適当に任命しているんでしょうね(間違っていたらご免なさい)。地域の教育政策を担う教育委員は、とても大事な存在です。その教育委員の選定に直接関わりたいと思うのは、子供のいる親なら当然のことです。日本でも教育委員は選挙で選んだらどうでしょうか。それとも日本の教育政策は、地域主導ではなく文部科学省が牛耳っているので、誰が教育委員になっても同じだというのでしょうか。

戦地ジャフナより無事帰還

 バングラデシュのダッカを発ち、バンコック経由でスリランカのコロンボ空港に到着したのが、10月2日の深夜でした。ホテルにチェックインしたのは、10月3日の午前2時近くです。一睡もしないまま、その日の朝5時にコロンボを出発して陸路ジャフナへ向かいました。スリランカ最北部のジャフナは、ご存知のように、タミールの虎とスリランカ政府軍が戦闘を繰り返していた主戦場です。今年2月の停戦合意を経て和平交渉が徐々に進む中、内戦で壊滅したスリランカ北部地域の緊急復興支援プログラムを世銀が中心となって進めるべく、急遽僕がジャフナへ行くことになりました。

 停戦合意がなされたとは言え、地雷が10万個も埋められている地域で、まだまだ何が起こるか分からないので、UNと車体に大きく書いたトヨタのランド・クルーザーの前後に大きな国連旗を結び付けての出発です(世銀は国連の専門機関なんです)。20年近い内戦の間、全く維持管理のなされていない凸凹道路を通って、約9時間かかってジャフナの国連寄宿舎に到着しました。途中何度も、スリランカ政府軍とタミールの虎双方のチェックポイントを通り、「地雷に注意」とか「地雷撤去済み」とか書かれた無数の看板を目にしました。

 ジャフナの国連寄宿舎に着くとすぐに、国連のセキュリティ・ブリーフィングがありました。そこで言われたことは、第一に地雷に注意すること。そのために、地雷が埋まっているかもしれないので、舗装されている道以外は歩かないこと。そして、地雷が落ちているかもしれないので、自分が落とした物以外は拾わないことでした。第二に、酔っ払った兵士達に注意すること。和平プロセスが進むに従い、兵士達はやることがなくなり、昼間からアルコール類を飲んで酔っ払っていることが多いんだそうです。そんな兵士にからまれたら、撃たれる事だってあるというわけです。あとは、マラリアやデング熱を媒介する蚊や、ジャフナには多くの野良犬がいるので、それらにも注意すること等々でした。

 2泊3日の滞在でしたが、やはりジャフナの街は悲惨な状況でした。多くの建物が破壊されて、内戦の激しさを物語っていました。街には、そこいら中を軍人が行き交い、国際赤十字や国境なき医師団、UNHCRなど人道援助機関のオフィスも多くありました。

 今朝6時半にジャフナを出発し、途中内戦のためジャフナ地区から逃れてきた人々を収容している難民キャンプを視察して、夕方の5時頃コロンボのホテルに戻りました。これを書きながらドッと疲れが出てきたところです。難民キャンプにいた子供達の中には、ビー玉で遊んでいる子供もいました。子供達は、帰り際には「バイバ~イ」と皆元気よく手を振って、僕を追いかけて来ました。悲惨な状況にもかかわらず、屈託のない笑顔を見せてくれる子供たちに出会うと、こちらが救われたような思いがします。あの子供たちがジャフナに戻れるような日はやってくるのでしょうか。きっとやってくると信じます。

西ナイル・ウィルスの脅威

 最近アメリカでは恐ろしい病気が流行っています。それは「西ナイル・ウィルス」という名のウィルスが引き起こす病気で、脳炎や身体の麻痺を伴い、重症の場合は死亡することもあるのです。そもそもこのウィルスは、その名が示すとおり、元来アフリカで発見されたウィルスです。それが、1999年に初めてニューヨークで発見されて以来、毎年徐々に全米に広がりつつあります。昨日のワシントン・ポストによると、今年この「西ナイル・ウィルス」に感染して発症した人は、全米で1745人に登り、そのうち84人が亡くなっています。発症者が多いのは、イリノイ州、ミシガン州、オハイオ州といった所です。ちなみにワシントンDC周辺(隣接するヴァージニア州、メリーランド州を含む)では19人が発症し、死者はゼロです。

 この「西ナイル・ウィルス」を媒体として運ぶのはです。要するに、蚊に刺されて感染するわけです。これは恐ろしいですね。いくら気をつけていても、家の中でも屋外でも、知らないうちに蚊にさされてしまうというのはよくあることです。蚊よけスプレーを塗ったり、肌を出さないようにするくらいしか対応策はありません。テロの脅威といい、この西ナイル・ウィルスの脅威といい、なんかアメリカがどんどん住みづらくなっているような気がしています。

おかあさんといっしょ。おとうさんも。

 雨ばかりの八戸での夏休み、娘達も外で遊ぶことが出来ず、テレビやビデオを見て家の中で過ごさざるを得ない日々が続いていました。娘達のお気に入りは、NHKの「おかあさんといっしょ」です。日本から買っていった「おかあさんといっしょ」のビデオを、ワシントンでも繰り返し見ていたので、彼女達にとっては慣れ親しんだ番組なのです。「おかあさんといっしょ」は、平日午前と午後の2回放送がありますが、彼女たちはそれだけでは飽きたらず、結局ビデオを買わされるはめになりました。

 「おかあさんといっしょ」の中でも、彼女達が一番好きなのは、「あ・い・うー」という体操のおにいさんの歌です。その他にもキヨコお姉さんという人が演じる「デ・ポン」というインドネシアかタイ舞踊のようなコーナーも好きなようです。三歳半の長女は、こちらに来るときに乗った全日空のスチュワーデスや、JASのスチュワーデスなど、ちょっと綺麗な日本人の若い女性を見ると、「キヨコお姉さん、キヨコお姉さん」と呼んでいました。

 さて先日、僕が「おかあさんといっしょ、見る?」と聞くと、長女は「おとうさんも」と答えました。おそらく、「おとうさんも一緒に見て」という意味だったのでしょう。そんな娘の言葉に、「この番組の名前はちょっと問題ありかなあ」と考えさせられました。何せ、「おかあさんといっしょ」というのは、ジェンダー・バランスが悪すぎます。アメリカでこんな番組名をつけたら、そのテレビ局は訴えられるかもしれません。この「おかあさんといっしょ」は、僕が子供の頃からやっている長寿番組ですが、本来父親も当然育児に責任を持つべきなので、そろそろ番組の名前を見直した方がいいのかもしれませんね。

リポン君の靴磨き

 僕が宿泊しているダッカのホテルには、リポン君という靴磨きの少年がいます。いつもこのホテルに泊まるたびに、一度か二度は彼に靴を磨いてもらいます。少年と言っても彼はもう22歳になったそうです。でも、初めてダッカを訪れた5~6年前からずうっと彼に靴を磨いてもらっているので、どうもその頃の少年というイメージが抜けないのです。靴を磨いてもらっている間、ブロークンな英語を話すリポン君と他愛のない会話をするのもちょっとした楽しみです。昨日も、彼に靴を磨いてもらいました。現在このホテルにはパキスタンのムシャラフ大統領が泊まっているということもあって、昨日の彼との会話は、もっぱらこのホテルに泊まったことのある有名人の話題に集中しました。

 彼は、「コフィ・アナン(国連事務総長)がここに泊まった時は、彼の靴を磨いたんだ。」と言うのです。「それで、コフィ・アナンはいくら払ったの?」と僕が聞くと、「10ドル」だそうです。「彼自身が払ったの?」と聞くと、「いや、秘書が払った。」と言ってました。リポン君の靴磨きには、いわゆる定価がありません。彼は靴磨きが終わるといつも、「As you like(いくらでもいいよ)」と言うのです。それに対して、コフィ・アナンの秘書は米ドルで10ドルを払ったというわけです。僕の記憶する限り、アメリカでの靴磨きの相場は3~5ドルくらいだったと思います。確かコフィ・アナンがダッカに来たのは去年でした。その時は偶然僕もこのホテルに滞在していて、背筋がピンと伸びてとても姿勢のいいコフィ・アナンとすれ違ったのを覚えています。

 リポン君との会話は続きます。僕が、「クリントンが来た時はどうだった?」と聞くと、「クリントンの靴は磨かなかったけど、あの時はマスコミやクリントンの警備の人やその他のスタッフが大勢アメリカからやって来て、その人たちの靴磨きで大忙しだった。クリントンはいいビジネスを運んできたよ。」ということでした。実はこのクリントンが数年前にダッカにやって来た時も、僕はこのホテルに泊まっていました。その時はクリントンには会いませんでしたが、クリントン一行は飲料用にハワイから大量にミネラル・ウォーターを運んできて、彼らがダッカを去った後、僕達は余ったハワイのミネラル・ウォーターをホテルの人からただで貰いました。

 リポン君は続けます。「日本の首相が来た時も、大勢スタッフを引き連れていた。でもあの時は、誰一人として靴磨きに来なかった。」ということです。ダッカを訪れた日本の首相とは、森前首相です。リポン君は、「モリ」という名前も覚えていませんでした。

 そんな会話を交わしているうちに、僕の靴もきれいに磨きあがりました。「さて、いくら払おうか。」と思って、手持ちの「タカ(バングラデシュの通貨)」を出してみました。すると、彼は「できればドルで払って。」と言うのです。「OK。でもいくらにしようかな。」と少し悩んだ揚句、コフィ・アナンの10ドルを意識して結局8ドル払いました。コフィ・アナンが払った金額よりはちょっと少ないですが、相場よりはかなり高いはずです。彼も満足そうでした。さて、現在このホテルに滞在中のムシャラフ大統領一行は、このリポン君にいいビジネスをもたらすでしょうか。

VIPよりワン・ランク上のVVIP

 今回ダッカに来て驚いたのは、僕の宿泊しているホテルのセキュリティの厳しさです。ホテルに入る際は、その都度全ての荷物をX線で調べられ、おまけに金属探知機をくぐらないとなりません。まるで、空港のセキュリティと同じです。ホテルの正面玄関前には、「VVIPの滞在のため、セキュリティの強化にご協力ください」というような掲示がありました。「VIP(Very Important Person)」ではなくて、「VVIP」です。「VVIP」というのは初めて目にする言葉ですが、「Very Very Important Person」の略だというのは容易に想像できます。要するに、「VVIP」は「VIP」よりワン・ランク上というわけです。

 その「VVIP」が、今日このホテルに到着しました。そのため今日は一段とセキュリティが厳しく、ホテル中で銃を抱えた軍人やら警官やらを数多く目にしました。ホテルの玄関からエレベーターまでは、普段は見ない赤いカーペットが敷かれていました。彼が到着する頃、僕も彼をひと目見ようと、ホテルのロビーに張り込んでいました。ところが、彼の到着時刻寸前に、僕を含めた一般の宿泊客は、ロビーから追い出されてしまいました。仕方がないので、僕はロビーから少し離れたカフェでお茶を飲んでいました。すると、けたたましいサイレンを鳴らした護衛車に先導されて、その「VVIP」を乗せた車がホテルに到着しました。数分後、その人は赤いカーペットに続くホテルの正面玄関を使わず、脇にある通用門からホテルに入って来ました。万が一に備えて、入り口を変えたのでしょう。あの赤いカーペットは、敵を欺くためだったのでしょうか。彼が入って来たその通用門からエレベーターまで行くには、僕がお茶を飲んでいたカフェの横を通らないといけません。案の定、その人は僕のすぐ横を通り抜けて、エレベーターへと消えていきました。大勢の護衛に囲まれてはいましたが、がっちりとした体格と威厳に満ちた顔立ちのその人を、この目で間近に見ることができました。グレーの三つボタンのスーツをお洒落に着こなしていた「VVIP」とは、パキスタンのムシャラフ大統領その人です。

ダッカより

ダッカを走るリキシャ スリランカのコロンボから、バンコック経由でバングラデシュのダッカに来ました。昨日のバンコック発ダッカ行きタイ航空は、出発が1時間半くらい遅れ、さらに悪いことには、ダッカの空港で僕のスーツケースがなかなか出てきませんでした。今まで2度、スーツケースが出てこなかった経験があるので、またかと思って諦めかけました。荷物が到着しなかったのは、いつもどこかで乗り継ぎをしたケースです。今回もバンコックで乗り継ぎをしたので、荷物の積み替えの際に手違いがあったに違いないと、悲観していました。すると、実に最後の最後に僕のスーツケースが出てきました。待つこと約70分でした。ただただいろいろな荷物を載せたベルトコンベヤーだけを見つめて、1時間以上突っ立っていたので、かなり疲れました。

 いつものようにフリーパスの税関を抜けると、待っているはずのホテルの送迎バスが、既に出発した後でした。僕の荷物が出てこなかったせいで、バスは僕を待たずに行ってしまったのです。仕方がないので、タクシーでホテルまで行くことにしましたが、ちょっと不安でした。ダッカにはもう何十回と来ていますが、ダッカの空港からホテルまでは、いつもホテルの送迎バスを利用するので、タクシーに乗ったことがなかったからです。僕は、途上国ではなるべく一人ではタクシーに乗らないことにしています。以前、パキスタンのカラチで誘拐されかけたことがあるし、一人でタクシーに乗ってどこかに連れて行かれたらアウトだからです。昨日のタクシーが、通い慣れた空港からホテルまでの道をそれて知らない道に入った時は、本当にドキリとしました。結局そのオンボロのタクシーは、ガソリンを入れるために道を外れたのでした。無事にホテルに辿り着いたので、こうして書いています。「変なヤツじゃないだろうか」と疑ったりして、昨日の運転手さんには悪いことをしました。

孔雀はオスがアピールし、メスが相手を選ぶ。

 スリランカ北東州の州都トリンコマリからコロンボに戻る途中、野生の孔雀を何度も目にしました。残念ながら羽を広げてはくれませんでしたが、それでも長い尾はとても綺麗でした。長い尾を持たないひと回り小さい孔雀もいました。運転手のガミニさんによると、綺麗な羽を持つ方がオスで、綺麗な羽を持たない小さい方がメスなんだそうです。孔雀はオスの方が綺麗で、羽を広げてメスの気を引こうと必死にアピールするというわけです。孔雀の世界では、どうやら最終的にパートナーを選ぶ権利はメスの方にあるらしく、この辺はとても面白いです。男性がアピールし女性が選ぶというのは、以前やっていた、あの「ねるとん」の構図に似ています。まあ、人間界では、女性ばかりが相手を選ぶ権利を持つとは限りませんが...。

 今晩コロンボを発って、次の目的地バングラデシュの首都ダッカに向かいます。

最後の弾丸を待っていたのでは遅すぎる。

 数日前に訪れたスリランカ北東州は、1980年代からずうっと、「タミールの虎」と呼ばれるLTTEとスリランカ政府軍が紛争を繰り返していた場所です。スリランカはいわば内戦状態にあったのです。この内戦で、実に6万人の命が失われたと言われています。しかしながら、今年2月にスリランカ政府とLTTEとの間で停戦合意が締結されました。そのため、北東州を訪れることが可能になったのです。スリランカに来たのは4年ぶりくらいですが、前に来た時はコロンボのホテルでも警備がかなり厳重だったのを覚えています。今回はこの停戦合意のおかげで、以前のような厳重な警備は見られません。時折小さな衝突はあるものの、今のところ概ねこの停戦合意が守られているということです。平和が持続し、二度と内戦状態に逆戻りしないことを願っています。

 今回スリランカに来る前は、この北東州を訪れる予定はありませんでした。しかし、停戦合意を側面から支え、平和の配当をもたらすために何ができるかを模索しようと、急遽行くことになりました。州都トリンコマリで州政府との会合を持ちましたが、ある州政府高官の次の言葉がとても印象に残りました。「停戦状態とは言え、小さな衝突はなおも起こりえる。しかし、最後の弾丸が放たれるのを待っていて(完全な平和が訪れるのを待っていて)、それまで何もしないのでは遅すぎる。」

スリランカで出会った日本人僧

 スリランカは仏教徒が多いだけあって、あちこちにお寺や大小の仏像が建っています。先週キャンディからヌアラエリヤという町に行く途中、「Japan Peace Temple」と呼ばれるお寺があったので、立ち寄ってみました。そこには、熊本出身のTさんという日本人のお坊さんがいたのです。Tさんは、このお寺にもう28年もいるそうです。僕が訪ねた時、ラジオの短波放送で相撲中継を聞いていたそうで、最新の相撲情報を僕に教えてくれました。その日はTさんの断食の日だったのですが、今度、断食の日以外に来たら、お茶をご馳走してくださるそうです。是非お茶をいただきにまたいつか行きたいです。Tさん、その時はよろしくお願いします。